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柴田屋漆器店の案内


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※特定商取引に関する表記は別途、上記のメニューから閲覧して下さい。
店舗住所(所在地) 〒928-0001
石川県輪島市河井町3-16
電話番号・FAX 0768-22-0242
ホームページ http://shibataya.sakura.ne.jp/
営業時間 9:00 - 17:00 【定休日】土日・祝日
※店舗画像は初代柴田芳太郎が創業した当時のもの

会社概要 

店名
柴田屋漆器店
(※合資会社経営であったが、戦後に個人経営変更)
店主
 
柴田屋漆器店3代目店主  柴田 清(職人名:仁斎)
設立年
明治四十年(創業106年)
事業内容
輪島塗の流通・販売

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柴田屋漆器店の歴史


はじめに・・・
柴田屋漆器店は明治40年に柴田芳太郎(初代店主)が創業しました。輪島では3番目に古い漆器屋です。現在は原点回帰して、昔ながらの行商(旅売)スタイルとなりました。



■カリスマ経営者の(初代)柴田芳太郎


元々、柴田芳太郎は富山の水橋出身でしたが、幼少の頃(明治20年ごろ)、養子として輪島塗りの職人柴田平太郎の家に来ました、柴田平太郎の親はやはり職人で柴田庄八といいました。江戸時代からある由緒正しい代々漆器の職人の家でした。

養子ながら芳太郎はここで才能を発揮しました。そして、20代のころ輪島漆器界では知らぬものがいないといわれる職人となりました。そしてその才覚が認められ人柄の良さから仲間が集まり、27才の若さで独立して長屋(借家)で小さな工房を開業しましたが、これが明治40年の頃です。これが実質の柴田屋漆器店の始まりとなります。開業当初から経営が順調だったのですが、明治44年に輪島の大火により輪島市内のほとんどが焼き払われて借家で営業していた柴田屋漆器店も全焼してしまいました。しかし、芳太郎はこれを転機とし現在の地に自社店舗の柴田屋漆器店を開業しました。芳太郎はここで企業家の才能に目覚めました。これが柴田屋漆器店の始まりです。

 ※当時の行商人の様子を書いた掛け軸

芳太郎は親方として経営を行うかたわら、元々職人の中の職人であった自分の技術を弟子たちに伝授していき、「柴田屋」というブランドを確固たるものにしていきました。このときから多くの寺社・旅館・京都の有名料亭が芳太郎の作る輪島塗の魅力に惚れて、お取引を行っていました。(平成の現在でも多くの寺院・料亭・京都の料亭などがお取引を続けています)

芳太郎は職人技術の才能もさることながら、経営者としての才能も発揮して、最盛期には輪島で最大規模の輪島塗工房(従業員数50人以上)として栄えていました。またこのときには自社店舗だけでは足りず隣接地もすべて借上げ柴田屋の工房となっていました。このときの塗師屋の平均的な職人保持数は4~6人と言われていたのですから、当時としては柴田屋に匹敵する塗師屋は数件しかありませんでした。

しかしながらこの頃は、景気がよいとは言えず、現代と同じように漆器店は職人をを沢山雇用する時代ではなかったのですが、芳太郎は最高の輪島塗を追及したため、芳太郎は技術者を育てることを重視し大規模に職人を雇用し育てました。そのかいあって、現代では柴田屋の技術を学んだ職人の後継者が輪島で活躍しています。例えば、現在輪島塗大手の「稲中漆芸堂」などは柴田屋の奥座敷を借りて商売をし独立を柴田屋が後押しして現在の地位を確立しました。つまり芳太郎は未来みつめるビジョンをもつ人物で、今の輪島塗の基盤を築いた一人だと言えます。

そして、今では当たり前ですが、当時は考えられなかった、輪島で初めてとなる「店舗型販売」をはじめました。当時は行商スタイルが一般的でしたので、この経営方法は画期的だといわれ、当時の輪島塗界のトップ経営者となりました。

■統制品の漆を確保したため警察署で拷問される
このように経営が順調な中で、柴田屋の輪島塗生産量が最大になる中で、当時の世界情勢により輪島塗では欠かせない「漆」が統制品となりなかなか手に入らなくなりました。良い漆がなければ良い輪島塗は出来ません、芳太郎は日本産の最高の漆を産地から直送する方法で全国を渡り歩き、漆の品質を確保しました。しかし、これが統制品を密輸していると警察に目をつけられました。芳太郎は輪島警察署に連れて行かれ、開口一番いきなり顔面を警察署長に殴られ、「全部白状させたるからな」と言われ、留置所に放り込まれました。厳しい取調べ(戦前ですので殴る蹴るは当たり前でした)が続き3~4日拘束されました。芳太郎は後にこのつらい体験は一生忘れられず、家族にもこのおぞましい屈辱は話したくないと言っていました。そしてこのとき芳太郎は決意したそうです。「最高の漆は自分で確保する」と。

この事件から数ヵ月後・・・ある土地を購入しました。それは芳太郎が現在の輪島市三井町(輪島市から車で20分の山間の地域)に漆の木の植林「柴田屋漆植林事業」を行うためでした。これがいわゆる輪島の漆業者では初となる「植林事業」でした。ただ、漆の植林は現在の技術でもかなり難しく、枯れてしまうことも多々ありました、しかし試行錯誤により「柴田屋漆植林事業」は軌道にのり成功しました(平成の現在に輪島で行われている植林事業が失敗ということから考えると当時の技術力で成功したことは神業でした)、自社の漆は自社で確保するという、統制下でも輪島塗の生産を惜しみなくできるという、他の塗師屋ではできない括弧たる生産性を確保しました。



■天才職人(二代目)柴田利雄の波乱万丈


そして時代が流れ、柴田芳太郎が亡くなると、8男3女の次男である柴田利雄が代を継ぎます、本来ならば長男が柴田屋を継ぐべきですが、次男柴田利雄の卓越した才能を芳太郎は見抜き、後継者として育てるため利雄の幼少の頃から技術を教え込みました。そして、利雄は芳太郎の思惑どうり見事な職人になりました。利雄は「よいものを作れば売れる」という職人精神が強かったため、芸術的な分野に長けて素晴らしい作品を残しました。聞くところによるとには「漆芸の天才」と周囲から言われていました。しかし、経営者としてはあまり上手に立ち回れるような人とは決していえませんでした。

今になって思えば「柴田屋」ブランドの信頼と「よいものを作れば売れる」という考えから作られた品物は、高い評価を得て、さらに「柴田屋」ブランドの付加価値を高めていったことは確かです。

 

そして、利雄の店舗経営が不調な中、さらに不運なことに第二次世界大戦が勃発します。利雄は、戦争参加によって最初はマレー半島にいき、そのあと中国方面に派兵され、前線の中国で戦い、終戦時にはスマトラ島で捕虜となっていました。

そのころ輪島では、あろうことか親戚達が芳太郎・利雄の財産をすべて持ち去り。「柴田屋」名義で借りてもいない借金を作りました。終戦後、スマトラから帰ってきた利雄は、親戚たちに商品と財産の全てを持ち去られ、帰ってきてみると、柴田屋の店舗がもぬけの殻になっていたことに愕然とし、そして親戚が作った借金のことも知らされました。その後、利雄は自分が作ってもいない借金をなにも言わずに返し続けることになります。そして芳太郎があれだけ苦労して作った「柴田屋漆植林地」も親戚に盗られ売却されてしまいました。良雄は後にこう語ったそうです「あのときに柴田屋の技術力以外はすべて失った。大きすぎるマイナスからの再出発だった」と。



■時代は高度経済成長。利雄の英断。


終戦直後は、輪島塗の最も大切な漆が入手困難な時期となりました、このころを「輪島塗の暗黒期」といいます。粗悪な漆が出回り、輪島塗の名前があるものの、輪島塗でない商品が出回る時代でした。

大切な漆植林場も失ってしまい漆の確保は柴田屋も大変難しかったですが、芸術家肌である利雄はコストの安い粗悪な漆を使わず、柴田利雄を信用す協力者から送られてくる漆を大切に使い品質を確保しました。しかし、質の良い漆が貴重品だったため、その大切な漆も運搬の過程(輪島に着いてから宅配交換所などで)において他の漆器業者に盗まれ、利雄は品質を保持するために大変苦しみ。芳太郎と同じように全国の産地を渡り歩き確保しました。



■(三代目)柴田清の「だれにもできないもの」を創る



そして、時代が流れ、輪島塗が伝統工芸として全国でも認められるようになり知名度が高くなると、輪島塗が売れる時代となります。利雄は商売が下手でしたが、時代に助けられ、戦争後に押付けられた借金に苦しみながら、なんとか経営をやりくりしていき、最終的には利雄の夢であった自社ビルである3階建の柴田屋ビルディングを建設し売場店舗も増設しました。(ただし借金は返済しきれず、3代目に戦後の借金が引き継がれます)

このころ、利雄の後を、大学生だった3男の柴田清に継がせることを決心していました。柴田清は一番不器用で職人としての才能はないと思われていましたが、遅咲きの才能があることを見抜き、高校の教師に就職が決まっていた柴田清を、無理に家に呼び寄せ、家の後継者にしました。

そして、輪島塗を取り巻く環境はさらに、時代の流れとともにさらに変化しました。時はバブル景気そして、輪島塗はいまだかつてない最大期を迎えます。

柴田屋も非常に好調な時期で、「良い品物を作れば売れ」るという、利雄のポリシーが、時代に合致して、3代目柴田清は順調に戦後の借金を減らして行きました。

しかし、バブル経済はいつかははじけるもので、時代は「バブル崩壊」と言う悲劇の時代を迎えます、崩壊後10年間程度で多くの業者が廃業しました。このとき柴田屋もいままでの、技術力だけではなく、創造力も高めなければいけなくなり、技術特化した塗師屋へと進化しました。

たとえば、名品と言われている茶道具・香道具などは、一般的に現代人の求めるサイズより一回り小さく作っています。これは、ほとんどの漆器屋が名鑑図録などの寸法をみて作っていますので旧式のサイズになってしまいます。柴田屋は茶道具専門の会社や名家の家元などに聞き取り調査を行い、現代人に合う大きさに変更しました。そして、実用性・鑑賞性が高い輪島塗を作ることが出来ました。

■(三代目)柴田清の現代を生き抜くための原点回帰


柴田清は若い頃から、茶道具・香道具の素晴らしさに見せられ、20年以上前から、茶道具・香道具の輪島塗制作も積極的に行い、現在では香道具セット、茶懐石セットなどで他の漆器店では輪島塗で技術的に出来ないような仕事も請け負っています

時は流れて現代、柴田屋は、輪島で初めての店舗販売を行ってましたが。価格はそのままで、より高品質なものを、直接顧客に輪島塗を販売するため。店舗営業を辞め、昔からのスタイル(創業当時)の行商人スタイルに変更しました。これは現代を生き抜くための原点回帰といえます。(※2000年以降は多くの漆器屋が店舗経営を辞め、品質の高い輪島塗を提供するため行商人スタイルに変更しています)



そして技術を追求しているさなか、悲劇なことにも、能登半島地震で柴田屋も大変な被害を受けました(時価総額2000万円以上の損害)、一時は、廃業も考えましたが。皆様の暖かいご支援にに支えられて、何とか経営を続行していくことを決心しました。

そして2010年末頃から、ホームページを開設しました。輪島塗の新作を発表する場を発信するためと、お客様の中で柴田屋で「こんな良い商品があったのか、もっと早くに購入したかった」とのご要望があり、お会いして現品をお見せするかたちは確実ですが商品を見れる数に限界がございますので、商品リスト・アーカイブスとしてご覧いただけるように店舗で厳選して商品を皆様に見ていただけるようにしました。

そして、2011.7月輪島の中心部で「輪島産業会館」がオープンしました。弊社店主も「専務取締役」として役員に就任いたしました。これからも輪島を元気にするために頑張って行きます。これからは輪島産業会館柴田屋ブースで店舗運営とホームページ及び業者様への卸売りという3つのツールで輪島を盛り上げていきます。
  

また、地域貢献の一環として産業会館まつりやまんなか商店街祭りなどの地域行事を支援しております。
 

当社は、ホームページを開設したからといっても、あくまでも直接お話して販売するスタイルを崩さないため、インターネットショッピングではなく、当ホームページを見て電話していただいて、可能であれば直接ご自宅にお伺いするスタイルです。基本的に日本全国すべての地域が対象地域です。

以上が、柴田屋の歴史でした。最後まで読んでいただきありがとうございました。今度とも柴田屋漆器店を御贔屓いただけるようお願い致します。

※上の写真は展示会の柴田屋特別展示上の様子

     平成23年10月3日 3代目店主 柴田 清



    




現店主:柴田 清(職人名:仁斎)


 
店主(仁斎)の製作した輪島乾塗りの作も販売しております。


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